ボランティアをするものの覚悟 - 和人VOICE

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ボランティアをするものの覚悟

こんばんは。
久しぶりの更新となってしまいました。


新年度を迎えた時は待ち遠しかったゴールデンウィーク(GW)も、気付けば
もう突入していました(笑)
まぁ、本番は5月に入ってからですが、それにしても週のど真ん中の休日
(=昭和の日)というのは嬉しいものです。


阪神大震災が起きた時、日本中から多くのボランティアが復興支援に
駆けつけました。
その中には生きる目的もない若者の姿があったそうです。


彼らは困っている人の為にボランティアを活動をしていく中で、感謝の言葉を頂き、
自分の存在意義を認識できたそうです。
でも、彼らは復興の現場から日常の生活に戻ると目の前のやるべき事から目を逸らして、
「また、ボランティア活動をしたいなぁ」という気持ちが湧きつつも現実逃避をしてしまいました。


この記事を見た時、酷い憤りを感じたものです。
彼らは結局、困っている人を助けたいのではなくて、その優越感に浸りたかっただけでは
なかったのか、と。


一方でボランティアの中からこんな声も聞かれたようです。

「始めのうちはボランティアとして活動することで、被災者から感謝の声がありました。
けれど、時が経つにつれて彼らはあたかもそれが当たり前かのように、感謝の言葉を
することがなくなってしまった。自分はそれがとても腹立たしい。」と。


被災者にとっては自分達はこれだけの被害を被っているのだから、このくらいの事を
してもらって当たり前、という感覚があるのかもしれない。
あるいは、あまりの生活環境の変化に対応できずに途方に暮れていたのかもしれない。


どちらも人間なら当たり前のように持つ感覚だと思います。

でも、考えてもらいたいのはボランティア行為とは何なのか?ということ。

感謝の言葉が欲しくてボランティアをするのか?
これは間違った認識ですよね。


ボランティアをするのなら何の見返りも求めない覚悟が必要だと思うわけです。
もっと言えば、ボランティアをされる側から、
「もう必要はないから、帰ってくれ」と邪険に言われても、
黙って帰る覚悟とでも言いましょうか。


人間とは実に欲深い生き物ですから、どうしても見返りを求めてしまう。
自分が行った行為に対して、それに応じる見返りを。
残念ながらこういう心がけでボランティアをしようと思ったら、いつか言いし得ない
複雑な感情を抱くことになってしまいます。


ボランティアをするものは自分がやりたくてさせてもらっているのだから、
用が済んだら黙ってその場から去るくらいが丁度よい。

中にはボランティアをしてくれたあなたへ感謝の言葉を述べる人だっているだろう、
でも、全ての人にそれを求めてはいけない。
その感謝の言葉はオマケのようなものだから。


そもそもボランティアをする側と受ける側に差なんてないのだから当たり前の話なんだけどね。


最近は社会貢献活動としてあるいは別の生き甲斐を見つけるために
ボランティア活動をしている人が増えているそうです。

間違ってほしくないのはその活動はさせてもらっているという事。
そういう気持ちがないのならボランティアをやるべきではないし、少ない賃金でも
お金を貰って活動をした方がいいと思います。(気持ちが割り切れますからね)


「お布施」という言葉がありますよね。これは仏教用語なんですが、
他人に何かを施したり、物品などを捧げる行為を言います。

托鉢も布施行の一つだったと思いますが・・・これは「行」なんです。
つまり、自分の為にする修行の一環なわけです。
本来、托鉢とはしてもらったお坊さんが感謝するのではなく、寄付をした方が
感謝をしなければならないもののようです。

自分が行った行為は必ず自分に帰ってくる、そんな良い行いを頂いた機会
感謝しなければならないそうです。


ボランティア(奉仕活動)も同じです。
誰かの為にというより自分の為に行うのがボランティアです。
ボランティアをする事で自分の成長の機会を頂いたと感謝すべき行為なのでは
ないでしょうか。


その覚悟があって初めて相手と良い関係が築けるのではないでしょうか。




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